境界
こんばんは。
民藝と発酵をモノサシに食とを通して健やかな暮らしを提案する古民家セレクトショップ&カフェ テマヒマ プロデューサー,バイヤーの太田 準です。
先日の某民藝系書籍の取材の中で「お店を営んでいてどういう時に喜びを感じるか?」という質問がありました。その時は、赤ちゃん連れのお客様がお越しになった時にお母様がお食事されてる間、ゆっくり召し上がれるように「抱っこしましょうか?」てお声がけしたら、「この子がお腹にいる時に来たんです」とか「上の子も抱っこしてもらったんです」って言われると嬉しいという答えをしました。この前の土曜日に4世代のご家族でお越し下さった方がいらっしゃって「この子が赤ちゃんの時に抱っこしてもらいました」とその時の写真を見せて頂きました。誰かにとっての特別な時間になっていること、そしてお店として時を重ねてきたこと、に喜びと感謝があります。
取材の時には咄嗟に出てこなかったのですが、「楽しかったです」といってお帰りになるというのも喜びの一つです。「美味しかった」ではなく「楽しかった」。勿論美味しいって仰って頂けるのも嬉しいのですが、「楽しかった」と言って頂けるのは、そのお客様と、民藝のことだったり、発酵のことだったり、少し長めに、少し深めにお話出来た時に思います。
先月の話ですが、以前テマヒマで小鹿田焼の器を買って下さった方が、民藝をもっと楽しむためにお話をうかがいたい、とメッセージを下さって、ランチの後に少しそのようなお時間を持ちました。美術が好きで興味があって、民藝の特に「無銘性」ということについてお尋ねがありました。色々お話もさせて頂いたのですが、その前提ということで、民藝という言葉が生まれた背景の一つとして、美術と工芸という言葉が生まれたことについてもご説明しました。このあたりは、高木崇雄さんの「わかりやすい民藝」や和楽WEBの日本文化はロックだぜ!ベイビ(日本文化の入り口マガジン)というポットキャストが分かりやすいです。
その背景・経緯を説明つつも、柳宗悦が「民藝という言葉に囚われてはいけない」といったように、その工芸とか美術という言葉の区分や境界を考えすぎない方がよいのでは?ということも申し添えました。その時に柚木沙弥郎さんの言葉をご紹介したのですが、正確にここで引用しておきます。
「アートと工芸、西洋美術と東洋美術、作家と職人、その違いは何だろうって思うの。僕はもっと言葉の解釈を広げて、『美術』とか『工芸』とか区別しないで、作ったものはすべて『アート』と呼べばいいと思っているんです」(柚木沙弥郎)
大阪日本民芸館の「眼のわざ、手のわざ」展を観た後、書籍の紹介とともに「牡丹」というタイトルでブログをアップしましたが、そこで山本さんの作品の形容として「洗練」という言葉を挙げました。
「手のわざ~山本教行作品集~」の解説の中で、松井健さんのこの一文が腑に落ちました。
「山本教行さんの好きな美しいものに囲まれた暮らしと仕事をみていると、工芸とアートいうような区分を考えるよりも前に、その生活が手で美しいものをつくろうという意欲に直結しているように感じられる。これは教行さんが焼物つくりをしようと決心するきっかけになったのが、バーナード・リーチとの出逢いであったことと切り離せないように思われる。リーチはおそらく工芸とアートという区分に関心がなかっただろうし、その区分を超えて仕事をしたといってよいだろう」
若かりし頃山本さんはヒッチハイクしてバーナード・リーチに会いに行ったり、リーチ好きという本を出すほどリーチを敬愛し、その作品を収集してらっしゃいます。山本さんも、リーチや先述の柚木さんのように、民藝とか工藝とか、美術とかって言葉に囚われることなく自由だったからこその60年だったのだろうと思います。
テマヒマの7年半の歩みは、例えば去年から哲学カフェ、恩送りの仕組みを始めたように、例えばスタッフの陣容に合わせてカフェの様相が変わったり、流れに委ねているところが大きいですが、民藝と発酵というモノサシについては揺らがず、それを深めてきたと思います。それが窮屈になり過ぎないように、執着し過ぎないように、ということは改め思うところです。この前、テマヒマブログDAY2(タイトル「飛翔」)を読み返したら、山本房江さん(教行さんの奥様)に「凝り固まらず肩の力を抜いて」と言われてましたね。。。。
テマヒマは昨日今日、火曜日水曜日で定休日です。明日11時オープンで皆様のお越しをお待ちしております。ランチの11時半、12時のお時間はご予約で残り9席とお席に余裕がございます。瀬戸本業窯の多彩な器特集は第三週、最終週です。
それでは明日も好いモノ、好いコト、好いトキをテマヒマで。
好い夜をお過ごし下さい。
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