里物
こんにちは。
民藝と発酵をモノサシに食を通して健やかな暮らしを提案する古民家セレクトショップ&カフェ テマヒマ プロデューサー,バイヤーの太田 準です。
飛騨高山の工藝店・やわい屋店主・朝倉圭一さんによるZINE「雑考」が届いております。シリーズ第3弾のテーマは「関係の美」。早速お求め頂いた方もいらっしゃってありがとうございます。
書籍のご案内をする時に、内容に触れ過ぎずにご紹介するのって本当に難しいなと思います。書評ってどうやって書くのでしょうね?というわけで、読んだ中で気になった言葉を一つだけピックアップして思索を進めてみたいと思います。それは70年代の工業デザイナー秋岡芳夫の「里もの」という言葉。お恥ずかしながら初めて知りました。
以下、朝倉さんの引用からの引用。
「今では、メーカーものが八割を占め、益子や砥部や輪島などのいわゆる産地ものが二割を占めるに至っている。作り手と使い手の意志が十分にかわされたうえで作られる里ものは、今日無きに等しい。里ものとは私の造語だが、要するにコミュニティー(共同体)の中で使い手の意見を反映させながら作られた製品である」
秋岡芳夫がどういう文脈で里ものという言葉を産み出したかは分かりませんので、ここからは僕の誤訳・誤釈になりますが、僕の中では「里山」という言葉と結びつきました。ご存知のように、里山とは、人里と奥山の間・あわい。人里に隣接していて、人の手が適度に入った場所、人が作った自然。民藝は自然と人の共作、自然の恵みをいただいて生まれたモノですから、里もの=民藝とは単純に言い難い気もしますが、素敵な言い回しだなぁと。
里山資本主義という言葉もあって、本で読んだのに詳細は忘れてしましましたが、行き過ぎた資本主義に対して、資本主義を完全に否定するわけではなく、もう一つの軸としての提案だったと理解しています。喩えるなら人里を離れて奥山に行こう!ということではなく、人里と里山を行き来しましょうぐらいの感じ。
ただ、先程の秋岡芳夫の言葉は、
「結論的には、里がなくなったから、民芸がなくなったといえる」
と続きます。
秋岡芳夫が語った1970年代からさらに半世紀も進んで、もっと里は無くなってるでしょうし、その理屈で言えばもっと民芸もなくなっているということになります。先程の文章からすると、物理的な場所としての「里」もですが、「コミュニティ」を指しているように思います。
僕の立場としては、民藝は無くなってしまったと嘆くよりは、今の民藝って何だろう?を考えたい。現代の「里」って何だろう?って考えたいのです。
同じく「土徳」という言葉についても、現代の都市における「土徳」って何だろう?ということを考えたい。土徳については、テマヒマブログで何度か登場していますし、土徳というタイトルでもブログを書きました。
大福寺住職で、となみ民藝協会会長の太田浩史による土徳の語義について再掲すると、
「住んでいる人の繋がり、その土地の気候•風土・自然環境、歴史、方言、料理、先祖からの
営み、精神文化などの共通項から生まれる見えない力。」
小倉ヒラクさんの新著「僕たちは伝統とどう生きるか」の中で、和辻哲郎の「風土」を持ち出し、ワインを醸す環境=テロワールに対して、日本酒を醸す風土には、人の手が含まれるので、<手>ロワールだ!と書いてらっしゃいましたが、土徳というのは<手>ロワールよりさらに広い概念。
都市部において「土徳」は生まれ得ないのでしょうか・・・・?
現代の「里」、都市の「土徳」。
いずれも今日のところは何ら答えらしきものはないのですが。。。
今日はお客様は決して多かったわけではありませんが、ランチタイムスタートからカフェタイム終了までお客様が途切れることなく、お近くから遠くは愛知の方までお越し頂きました皆様ありがとうございました。
明日も11時オープンで皆様のお越しをお待ちしております。ランチの11時半,12時のお時間はご予約で残り1席となっています。12時以降のお時間はお料理の確保予約(お席は空き次第のご案内)も承っております。
それでは明日も好いモノ、好いコト、好いトキをテマヒマで。
今日も一日お疲れ様でした。好い夜をお過ごし下さい。おやすみなさい。
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